漢字を形・声・義にわたって体系的に理解するとともに、わが国の字訓の用法を確かめることは、漢字を国語表記に用いるときの基本の作業であるが、国語の語彙の半数以上が、その漢字を結合した連文、いわゆる熟語で占められている事実からいえば、語彙もまた重要な国語領域の問題である。
漢字は単音節語であるから、ひびきが強く、また多義的であるという特徴がある。それでそのような漢字の結合は、造語の上に種々のはたらきをする。たとえば同義字を重ねることによって、概念を集中し、強め、純化し、深化する。声義の近い字を連ねることによって、概念を拡大し、方向づけ、また相矛盾するものを連ねることによって、そのような対立を含む範疇の全体を示し、あるいはまた、修飾・被修飾の関係が容易であることから、語の構成が容易であり、かつ多様でありうるなど、孤立語特有の造語法がある。しかもそれは、同一の文字による、二千年にも及ぶ歴史の集積の上に成るものであるから、語彙そのものに歴史の背景がある。語彙の構造の上からも、その歴史の上からも、語彙そのものが一種の存在感ともいうべきものをもち、それによって比類のない表現の世界を展開している。中国が文字の国といわれるのは、そのような文字による表現の世界をもつからであり、一つの語彙が、ときには一つの思想の集約として、ときにはある歴史的な事実と関連するものとして、ときにはある作品に直接に連なるものとして、それらを想起させる。語彙はしばしば、その全体の支点をなしている。
わが国では、かつてはそのような中国の文献、その漢字による表現の世界を、わが国の古典を読みこなすような容易さで、国語として読むことができた。中国の文献は、また同時に、わが国の文献でもありえた。大量の漢語がわが国で国語化して用いられるのは、そのような状況のなかで可能であった。
語彙は、具体的な表現のなかで生きている。したがって語彙は、そのような表現のなかにあるものとして、扱わなければならない。語彙の解釈は、他の語におきかえるということだけで、終わるものではない。語彙は、本来はおきかえることを許さないものであるはずである。おきかえることを許さない固有の表現であるということが、語彙の条件であるといえよう。それで語彙の解説に用いる例文は、一つの完結した表現であることを要する。単に出所を示すだけのことならば、それを注記するだけでもよい。しかし語彙が語彙であるためには、その文例は具体的な表現であることを必要とするのである。
たとえば、「軽舟」という語がある。「軽い舟」「軽く小さい舟」「小さくて速い舟」と訳してみても、語感としては適当でなく、また十分でない。おきかえができないのである。しかし「輕舟
に
ぐ
重の山」というとき、「軽舟」は姿をあらわす。語釈というようなものを越えて、軽舟そのものが眼前に出てくる。「兩岸の猿聲
いて盡きざるに」という上の句をつけ加えると、山川ともに動く躍動する世界のなかにある軽舟の姿が、いっそう鮮明となる。さらにもし「
に辭す、白
雲の
千里の江陵、一日に
る」という上二句を加えれば、表現はもとより完璧となる。そしてこのとき、「軽舟」が天地の主である姿がうかぶ。
本書では、そのような意味で、例文に重点をおいた。例文によって感得されるものが、最も正しい、完全な解釈である。それで例文には、完結した表現をもつものであることが望ましい。また例文は、何びとにも理解しやすいものでなければならない。それで例文はすべて訓み下し文とし、難語には訓みをつけ、注を施した。徴引の文は経子史集の各分野にわたり、古典から近人の作家に至るまで、なるべく独自の主張をもち、独自の表現をもつものをえらんだ。既存の辞書に負うところも多いが、私自身が採録を試みたもの、協力者によって摘録されたものもあり、すべて原典により、原拠を確かめたうえで収録した。ただ表現の完結した例文を、訓み下し文によって収めるのには紙幅を要するので、結局は当初収録を予定していた文例の幾分を、節略せざるをえなかった。もし機会があれば、この書が有志者によって、さらに多くの例文を加え、中国における表現の精華を、より多く伝えるものとなることを希望している。
例文を収めえなかった語彙は、簡単な解釈を附して列挙することにした。これらの語はなお世用に供しうるものであり、造語法のみるべきもの、修辞の参考となるものなどを録し、廃語に近いものは略した。
また次に下接語を加えた。〔佩文韻府〕は各字条に下接語を録しているので、それを主とし、別に通用の語を求めて加えた。語彙や下接語は、適当な表現の語を検索するときの資料として、用意した。