明治以後のいわゆる漢和辞典は、おおむね定まった編集法によっている。まず字説としては、〔康熙字典〕の部首法により、部中の字を筆画によって排次し、漢・唐・宋の字書類によって訓義を加える。〔康熙字典〕は語彙を加えないが、これに語彙を加える編集法は、西洋の辞書の編集法をとり入れたもので、その方法は、中国でよりも、わが国でまず行われたようである。
今の漢和辞典の形式を創始したものは、おそらく三省堂の〔漢和大字典〕であろう。貴族院議員文学博士重野安繹、東宮侍講文学博士三島毅、北京大学堂教習文学博士服部宇之吉三者の監修に成り、貴族院議長学習院長公爵近衛篤麿および重野安繹が序を加え、近衛の序は日下部鳴鶴の書に成る。書名の題字には、北京大学堂総教習呉汝綸を煩わしている。重野・服部両博士が、実際に監修の任に当たった。その例言数条を録しておく。
最後の項は、語彙は下接語によるとするものである。〔佩文韻府〕の語彙は下接語によって収録しているので、それを利用するための便宜によるものであろうが、正法としがたい。本文の目次、索引、国訓国字表など、辞書として用意のわるもので、のちの辞書はほとんどこの形式を踏襲している。ただ字源の解釈がなく、そのため「原義をにし轉義を後にする」という原則は、必ずしも厳密には行われていない。たとえば「寡」は、未亡人が中に哀告する形で、金文にも「鰥寡」の語で初見、未亡人を原義とする字であるが、この書では
の順に訓義を列する。また「」は文身の象であるが、その十四訓義のうちにその義を列することがない。字の形義を扱う項目がなく、その初形初義を説くことなくして訓義を次第することは、もとより困難なことである。しかし本書はその用意のわることからいえば、近衛の序に「泰西辭書中最もしたるものの體裁に則り」「匠斬新、完整無比、洵まことに斯學の津梁たり」というのも、決して誇称ではない。「此の書一たび出で、彼此の形、相融し、以て唇齒の誼を金かたくせば、東洋の治安の策に補ふことらんか」とは、近衛の一家言であるかも知れないが、編集者にもそのような気概は存していたであろうと思う。
この書は明治三十六年(一九〇三年)二月の出版であるが、中国では数年後〔辞源〕が出版された。おそらくこの書の出版が、その機運を促したのであろうと思われる。
中国における辞書の刊行は、〔辞源〕にはじまる。洋務運動の広まるにつれて、情報の交換も盛んとなり、海外文献の紹介なども急激に増加して、辞書の刊行を待望する声が強まってきていたが、わが国の〔漢和大字典〕の刊行は、それに強い刺激を与えたことと思われる。〔辞源〕は民国四年(大正四年、一九一五年)に出版されたが、その序に「癸卯・甲辰(明治三十六、七年)の際」、急にその議が起こって、同志五、六人、のちには数十人が、十余万巻の書を渉猟し、八年を経て、はじめてその功を終えたという。
編集の方法はほとんど〔漢和大字典〕と異なるところはないが、語彙はひろく翻訳語、科学用語などにも及び、明らかに百科辞書の用を兼ねようとするものであった。のち民国二十年、続編を刊行、附録に、正編末の「世界大事表」につづいて、「民国紀元以来世界大事表」のほか「行政区域表」「全国商埠表」「全国鉄路表」「化学元素表」「中外度量衡幣表」などを加える。のちまた正続の合訂本が出ている。
中国最初の辞書であった〔辞源〕は、のち修訂版が作られ、一九七九年第一巻刊、四巻より成る。一九七六年より改修に着手、「馬列(マルクス・レーニン)主義、毛沢東思想の立場・観点・方法を指導方針として」改訂したという。かなりの増補が加えられていて、中辞典というほどの分量のものである。
〔辞海〕は〔辞源〕の初版本が出た民国四年に編集企画が出され、十六年にいちおう完稿したが、「原稿中、已に死するの辭太はなはだ多く、行の新辭太だ少なきを覺え」、方針を変更して「刪新」の方針を定め、先後従事する者百数十名、一九四七年(昭和二十二年)に刊行、全書の条数十万以上、総字数約七、八百万、新造の活字は一万六千個に及んだが、なお不十分であったという。戯曲・小説など、白話系の語彙が甚だ多く、わが国でいえば、〔辞源〕が古語辞典であるのに対して、〔辞海〕は古語・近世語辞典という趣がある。編印者である陸費逵氏は、その「編印縁起」の末に「天如もし我に假するに年を以てせば、吾當まさに其の餘を賈かひ、再び一二十年のを以て、一部百條の大辭書を經營すべし」と述べている。そのころわが国では、すでに諸橋轍次博士による〔大漢和辞典〕が組版を完了していたが、組版はことごとく戦禍に失われていた。
〔大漢和辞典〕の構想は、著者の自序によると、大正末年の頃よりはじまり、その準に着手、昭和十八年に第一巻を発行、続刊の予定であったが、戦禍で一切の資料が失われた。ただ全巻一万五千頁分の校正刷三部が残されていたので、再び残稿の整理に入り、昭和三十四年(一九五九年)文化の日に第一巻を刊行、爾来四年の歳月を要して、本文十二巻、索引一巻を刊了した。収録字数四万八千八百九十九、語彙約五十万、語彙ははじめに採録した約百五十万より厳選したものであるという。戦禍の災厄もあり、著者も視力を喪うなどまことに苦難の多いことであったが、国家的な大事業としてその完成が祝福された。昭和六十一年にはその修訂版も出され、昭和の大出版として書史にも残る壮挙であった。地名・人名のほか現代白話、官用語なども多く収められている。
〔大漢和辞典〕が刊行された数年後、民国五十一年(昭和三十七年、一九六二年)、台湾でこれとほぼ同規模の〔中文大辞典〕三十六冊が刊行された。収録の字数四万九千八百八十八、語彙も各字条に番号を附して録しており、その数も〔大漢和辞典〕とほぼ相等しい。各字条に卜文・金文以下、明・清の書に至るまで、各体の字様を録入している。
近年に至って、中国では、二部の注目すべき辞書の出版が行われた。その一つは四川で出版された〔漢語大字典〕八冊で、一九八六年刊行を開始、一九九〇年に刊了した。文字の形・音・義の解釈を主とする字書で、徐中舒氏の主編、三百余名が十年を要して編集したもので、単字五万六千、収録の字数は〔康熙字典〕よりも遥かに多い。字形については卜文・金文のほか、侯馬盟書や睡虎地竹簡など新出の文字資料にも及び、篆・隷・漢碑、璽文の類をも網羅している。これよりさき、一九八〇年に刊行された〔漢語古文字字形表〕は、この書に録入する資料として用意されたものであろう。単字の字書として、これだけの規模のものでありながら、字形・字源についてはただ〔説文〕を徴引するのみで、近年の卜文・金文の研究に及んでいないことが惜しまれる。〔字形表〕にも字形についての考説や記述はない。
一九八六年十一月に第一巻を発行した〔漢語大詞典〕は、上海を中心とする華東諸大学の四百余人の協力によって編集、一九七五年以来十二年を経て完稿、全十二巻、別に附録・索引一巻、詞目三十七万条、五千余万字、僻字・死字を収めず、専門語は一般語としても通用するものに限って採録する。「釈義確切」「文字簡」、語例に踏襲少なく、典拠確実、校正もかなり厳密に行われている。解説部分には現行の簡体字を用いるが、徴引の文はすべて旧字による。「大辞典」としては、わが国の〔大漢和辞典〕、台湾の〔中文大辞典〕とともに、それぞれの出版文化を代表するものであり、特に後出のこの〔大詞典〕は、用意の最もわるものというこができる。
わが国の一冊本の常用辞典としては、大正五年(一九一六年)、服部宇之吉・小柳司気太両博士監修の〔詳解漢和大字典〕、大正十二年(一九二三年)、簡野道明博士の〔字源〕などがあり、のち改修・増補の書が相次ぎ、近年は角川書店の〔大字源〕、大修館の〔大漢語林〕など、一冊本で中辞典に相当するほどの内容をもつ書が出ている。検索用の辞書としては、十分世用に供しうるもので、あらためてこの種の辞書を編集する必要は、ほとんどないといってよい。そのような状況の中で、本書の編集を試みるのは、さきにもしるしたように、漢字を一つの文化、文化科学的対象として、そのありかたを組織的に整理し、体系として考察するということを、今日的な課題として、重要な目的の一つと考えるからである。
漢字に字形学的な解説を加えるときには、従来は〔説文解字〕によって説くことが普通であり、まれに編者の意見が加えられるときにも、字形学的体系の上に立つものは、ほとんどなかった。文字が成立した当時の初形を示す卜文・金文の資料の出土によって、説文学は基本的に改訂を必要としている。それで私は〔説文新義〕を書いて説文学の批判を試み、のち〔字統〕にその概要をしるした。「説文学」は、資料的にも方法的にも、ここに新しい体系を獲得することができたと確信している。
字の初形初義が明らかとなって、はじめて字義の展開を考えることができる。字義の展開は、いちおう歴史的なものであるから、文献の使用例によって追跡しうるが、ときにはその事例を欠くために、論理的に補充する必要のあることもある。たとえば「眞(真)」は倒のの従うところであり、もと死者の象であるが、その強烈な呪霊によって、真誠・真実在の意にまで昇華する。ただその昇華の過程は、訓詁の上では実証を欠くところがあり、一種の思弁的過程を経ているものと考えなければならない。また「(雅)」はからすの意であるが、それが雅正・風雅の意となるのは、おそらく通仮によるもので、その通仮の対象が「夏」であったというようなことは、訓詁的な論証を必要とする。このような演繹と通仮とによって、字義は複雑な展開をする。しかしこのような問題も、まず確かな起点を設定することからはじめるのでなければならない。そしてその声系・語系を明らかにすることによって、はじめて字義の展開を明らかにすることができる。そこにはときに、字義を通じての思惟過程の問題、精神史的な課題を含むことがある。
字義の展開には、訓詁の歴史をたどることが望ましい。それぞれの時期における辞書の訓義は、いわば最大公約数のようなもので、具体的な記述に即するものでなく、その点ではたとえば〔経籍詁〕のような資料を活用することが望ましい。それで本書の初稿にはその項目を用意し、採録排次を試みたが、分量の問題もあるので割愛した。辞書としての体系は、いちおう字形の解説、訓義の展開、また声系・語系を通じて、形・声・義の関係を明らかにすることによって、その大略を組織することができると思うからである。